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自己否定の強かった僕が、そこから脱した方法

「ただ、おとなしく座っていれば怒られない時間なんだ」

僕が通った幼稚園には、定期的に座禅の時間がありました。

禅寺が運営している幼稚園だったからです。

そこに通うことになったのは、特に親に想いがあったといったものでもなく、単に自宅から一番近かったからでした。

目次

瞑想とのご縁

冒頭の「おとなしく座っていれば……」というのは、幼稚園児だった僕が抱いた、座禅の時間に対する印象です。

ある時間になると、一番広い部屋に園児が集められます。

園児が揃うと、いかつい体格の頭を剃り上げたおじさん(に、当時の僕には映りました)が部屋に入ってきます。そして、彼の合図と共に座禅の時間、つまり、「おとなしくしなければならない時間」が始まるのでした。

その人がお寺で一番偉い人だったことを知ったのは、大人になってからのことです。

僕の座禅や瞑想との出会いは、こんなところから始まりました。

僕が抱いた思いは、いかにも子供のものでしたが、このように物心ついた頃から座禅があったことが、その後の僕を、ある種、暗示していたのかもしれません。

その後、小学校に上がってからは、座禅などとは無縁な日々が始まります。

ところが、大人になってから僕の人生に戻ってくるのです。

大学を卒業。縁あって就職(文字通り、縁故採用でした。)したのが、瞑想をサポートするような機能を持ったグッズも扱っている会社。

10代の後半から心理学に興味を持っていた僕は、再び僕の人生に戻ってきた瞑想に、素直に興味が向きました。

実際に瞑想に取り組むことにもなります。半ば仕事として、というスタンスでしたが。

また、高校生の頃からずっと、趣味で管楽器をやっていたのも、瞑想を連想させるところがあります。

瞑想の基本中の基本は呼吸をコントロールすること。

特に吐く息を長く保つことが重視されます。

管楽器は音を出すために息を長く吐くことになりますから、これが瞑想と似たような状態をもたらしていたようです。

実際、通っていた教室の帰りには、かなり気持ちが軽くなっていることを感じることが多かったです。

そうは言っても、楽器も毎日吹くわけではありませんでしたし、瞑想自体も日課として取り組むことはありませんでした。

そんな瞑想と付かず離れずの関係が20年近く続きました。

そのあたりの意識が変わったのが4年ほど前です。

サラリーマンを辞めて個人事業主になったのをきっかけに、本格的に瞑想を生活に取り入れるようになりました。

折りからのマインドフルネスの流行も相まって、様々な瞑想法を学べる機会も増えました。

そうして、これまでに数十種類の瞑想法を学んできています。

ただ呼吸に意識を向けるだけというシンプルなものから、「食べる瞑想」や「踊る瞑想」といったもの、中にはオカルトっぽいものもあります。

内なる観察者の発見

そんなある日です。

それは洗濯機の中から洗濯物を取り出して、干している最中に起きました。

「あれ? 思考の中に、今まで認識してなかった視点があるぞ」

捉えたのは、自分の中にあった自己否定の感覚(詳しくは後述します)の変化でした。

ふと湧き上がってきた、「自分はやっぱりダメだ」みたいな思考。

それに加えて、そこを「あ、またやってるな」と観察する、もう一つの思考がそこにありました。

まるで、他人が自分の中にいるかのようです。

もちろん、他人に踏み込まれたというような感覚や、別の意思に自分が支配されるような感覚ではありません。

この、自分の中に芽生えた他人の視点を「内なる観察者」と呼んでいますが、その存在を初めて自覚したのです。

僕は、自己否定が強い傾向にありました。学生時代くらいからでしょうか。

「どうせ自分は……」という思考が、何をやる時も心の中を渦巻いていました。

それがデフォルト状態になっていました。

あらゆる場面で「お前はダメだ」という悪魔の囁きのようなものが、心の中に響いていました。

相田みつをさん。

僕は、彼の人の心を解いてくれるような美しい言葉が大好きでした。

彼の言葉に感動しつつも、一方で、「僕は足りてない」という声も心の中で鳴り響いていました。

そのような心の声があるので、どうしても自分を否定的に捉えたり、自己価値を過剰に低く見てしまうところがあったのです。

こういう状態だと、何か新しいことにチャレンジすることも躊躇いがちになります。結局は手をつけられないことになるわけです。

人に「どんなことをやりたいの?」と問われても、いつも頭が真っ白になっていました。

人からはナイーブで風変わりな人間に映っていたのではないでしょうか。

そんな僕が、「内なる観察者」の存在に気づいたことで、もう手が付けられないと半ば諦めていた悩みから脱していたことに思い至ったのです。

完全にゼロになったというわけではありませんが、自分を悩ませるものではなくなってきています。

瞑想が「内なる観察者」を育んでくれた

「これはまた、どうして?」

そうなれた原因を自分なりに分析してみました。

見えてきたのは、瞑想に取り組んでいたことが働いていたことです。

先述した通り、僕は数々の瞑想法を経験してきました。

多くの瞑想法で共通している点があります。

それは次々と湧き上がってくる思考、いわゆる雑念の扱い方です。

雑念が湧いた時は、雑念をゼロにしようとするのはやめましょう。
ただ、雑念が湧いてきたことに気づいて、淡々とそれを手放すようにしましょう。
瞑想中は、それを、ひたすら繰り返してください。

そんなふうにアドバイスされます。

この、「淡々と手放すことを繰り返すこと」が、瞑想という特別な時間にだけでなく、日常の中でも起きるようになってきていたのです。

このように、内なる観察者が育まれてくると、セルフイメージと、湧き上がってくる自己否定の思考の間にある結びつきが解けていくようになります。自己否定の思考の波に呑まれずに済むというか。

感情のままに動くのが自由であると思っている人がいますが、本当の自由は感情に振り回されないことです。

感情から自由になることが本当の自由なのです。

これは、僕の恩師の言葉の中でも特に好きなものです。

この言葉が示すような、自己否定の感情に呑まれずに、自由を獲得できたのです。

まとめ

ということで、僕が瞑想に日々取り組むことで、自己否定から抜け出していったストーリーをご紹介しました。

お気付きかとは思いますが、自己否定から自由になれることだけが、「内なる観察者」が得られるメリットではありません。

喜怒哀楽、様々な感情から自由になれるからです。もちろん、ご自身にとって好ましいものであれば、好きなだけ、そこに浸っても良いのです。

要は、それを自ら選択できる自由があること。これが素晴らしいことなのです。

今回は僕のストーリーでしたが、自己否定に悩んでいる方が、より楽に人生を生きられる。そんな変化を起こせる方が一人でも多く出たら嬉しいです。

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