「人に良く見られたい」
そのために氣を配ることは、一般的には、相手本位な姿勢と考えられがちです。
実は自分本位とも言えるのです。
こういったことをすることは「自分をよく見てもらうために周りをコントロールしようとしている」ともなるからです。人に良く見られるために何をするでしょうか? 身だしなみを整えたり、言葉遣いなどの態度に気を配ったり。そういう側面を考えると、全く自分本位なのです。
個人セッションの現場から
個人セッションをしていると、いくつかの傾向が出てきます。
その中の一つの例を挙げてみます。
人に奉仕すること、貢献することを正義としているタイプの方がいます。「与える」ということに特化しているような。
裏を返せば、対価などを受け取ることを是としていないようなところがあります。
それが心地よくできている時は良いのです。時に、何らかのファクターによって、バランスが崩れてしまうことがあります。何かしらの不本意さ(先行きへの不安、気持ちのザワつきなど)が生じてくるタイミングでもあります。
そんな時にセッションを受けにいらっしゃるわけです。
相手本位のつもりが実は
僕の個人セッションでは、その違和感を一つひとつ丁寧に紐解いていくことをします。
その違和感は何を懸念しているのか? では、その懸念はどこからきているのか? といったものを掘り起こしていく感じ。(だいぶ簡単にしてます)
紐解いていくと、その奥には「良く見られたい」というのが隠れていることがあります。ここから更に進んで行くと、「良く見られていないと、この世から追い出される(イコール、死が待っている)」といったような怖れが潜んでいるわけです。
この無自覚な怖れが、相手本位という姿勢を生み出します。
これって、純粋な相手本意ではないのが分かりますでしょうか。やはり人間関係に影響します。ジワジワと。短期的には分かりませんが、中長期的には人間関係にポジティブな影響をもたらすことは考えにくいですよね。そうなると、益々、怖れからの相手本意が強化されていく。そして、「なんでこんなことに?」という事態に発展してしまう。
相手本位にしないと身の危険を感じるというものが、結果として相手本意になっておらず、むしろ自分本位を生み出している。そんなパラドックスになっているのです。
ご本人にしてみれば、この現実のほうが残念でしょうね。
まとめ
相手に良く見てもらえるように振る舞うことは、本質的に相手本位とは言えないということについて書きました。
この観点から見えてくる本当の相手本位というのは、こういうものではないでしょうか。「こちらをどう見るかは、相手の自由」として、自らの想いは手放し、相手に委ねること。自分を悪く思おうが良く思おうが、相手にその考えを抱く権利を明渡している。
これが本当に相手本意な姿ではないかと思うわけです。
そうしたほうが、結局は自分自身も自由でいられるわけです。
追記
この文章をAIに読んでもらって要約してもらったら、こんな言葉が最後に出てきました。
この真実は、自由な自己表現に繋がります。
そういう意図をもって書いたわけではありませんでしたが、「その通り!」と膝を打ちたくなる内容です。すごいな。
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