今回は、久しぶりの自己開示の記事です。
心理学で「シャドウ」などと呼ばれるものがあります。
要するに、自分の過去の体験から、「どうせ◯◯なんでしょ」と拗ねてしまっているような部分です。
拗ねて「◯◯でしょ」と思っているいる内容は、真実ではありませんから、現実と相容れることはありません。そのズレが不本意な事態を引き起こします。
そんな不本意な事態を紐解いた気づきを今回は書き残しておこうと思います。
玉ねぎの皮の下には……
僕自身のことになると、「どうせ人は僕の話を聴いてくれない」というのがありました。少なくとも20代の頃には自覚があった記憶がありますが、恐らく子供の頃から、ずっと自覚していました。
最近の内省によって、これがだいぶ成仏していること判明したんです。自分と向き合う技術を身につけたり、僕自身がコーチングなどを受けたりした成果でしょう。
更に内省をしていく。
その下に別の「どうせ……」がいたのですよ。まるで玉ねぎの皮を剥いだら、また玉ねぎが出てくるような。
どうせお金は
「どうせ人は助けてくれない」
それが、そこには居座っていました。
でーん。
言葉にすると、前のと意味は似ています。主観的にはだいぶ質感が違う。根っこが違うというか。
ある時、そこを扱っていたら、助けてくれないと思っているのは文字通りの人だけではなく、お金もその「人」という言葉の中に含まれていた。
スイッチを押したら電灯がパッと光るみたいに、このことに気づかされました。
マジか〜! と頭を抱え込んでしまいました。
でも、その瞬間、肩がフッと軽くなるような体感覚。また1枚、玉ねぎの皮が剥がれた瞬間ですね。
一人相撲をとっていただけだった
これは、ある意味で、先日アップした↓こちら↓の記事の前日譚になります。
僕が大っぴらに人に助力を乞うことに、「どうして、そんなに人を頼れるの?」という驚きの目線が向けられるようになってきたというエピソードを綴ったものです。
こうなってみると、結局は「どうせ……」と思いながら、人に力を借りることをせず、一人相撲をとっていただけだったと思い知らされます。
普通の関係性であれば、力を貸してほしいと頼まれれば、力を貸そうとするのが人間ですからね。
その後、お金を使うことについても、自分の楽しみや相手への応援の気持ちを軽やかに込められるようになりました。
まとめ
「どうせ、お金は力になってくれない」と“拗ねた”自分に気づいたら、人と一緒に何かをする、人の力を借りるということに抵抗を感じなくなった。
むしろ、人の力を借りたほうが一人でやるよりも何倍も楽しいという体験につながったきっかけとなった気づきを綴りました。
綴りながら、皆さんの助けもお金の助けも借りて、やりたいことをやって行こうと気持ちを新たにしたのでした。
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