突然ですが、人が住まなくなった家って、どういうわけか、あっという間に朽ちていくのに、人が住んでいると、大した手入れをしていなくても、傷みにくくなります。
僕には、次のような思い込みと言われても仕方のないようなビジョンがあります。
「人類は地球の守り手である」
その住む場所を守ったり豊かに育てる役割があるという意味合いです。
人が住む家が朽ちにくいというところに、この一端が現れていると感じられるのです。
一方で、視点を変えて現在の世界を見回してみると、人が住むこの地球は、森や海が次々と破壊され、今この瞬間も野生生物が絶滅していっています。
このビジョンと現実のギャップが、今の僕の活動の原点になっています。
▼具体的な活動との繋がりについては、この記事のほうで綴っています。
内容的には、少し重めかもしれませんので、もしよろしければお付き合いください。
何十年も続く環境問題
現代、ご存じの通り、多くの環境問題が取り沙汰されています。この1年ほどのトピックだけでも、温暖化に伴う海面上昇、アマゾンやオーストラリアなどでの火災、海洋プラスチック汚染、次々と絶滅していく野生生物。
ところで、僕は1975年生です。言うまでもないことかもしれませんが、僕が生まれた当時から、既に環境問題は大きな問題となっていました。石油の大量消費と、それに伴う空気汚染、オゾン層の破壊、水俣病などに代表される薬品汚染の問題。身近なところでは家を建てるために、そこに何十年と住んでいた木々が一瞬で切り倒されるなど。現在まで続いているものもあります。
これらのことを知るにつけ、触れるにつけ、若い頃の僕は心を痛めてきました。
もう一つ、何故か心を痛めていたのが原爆と放射能の問題です。これは、自分でも戸惑うほど強く反応していました。
原因として考えていたもの
僕は、これらの問題の原因は、人類のエゴと分離の意識による活動、特に経済活動にあると考えてきました。
次々と切り倒されていく森林、特定の魚だけを獲るために海の底から根こそぎ削っていく漁、玉子を大量に産ませるために最小限のスペースしか与えない鶏卵、etc……。
経済的な利益を最大化させることだけに目が向けられていく。
無言ながらも人類に様々な教えと、生きていくための糧と資源と、様々な恩恵をもたらしてくれる自然へのリスペクトを完全に見失ってしまった人類に絶望感を覚えていました。それが、いずれ自分達の首をも締めることになる。そのことに思い至らないのか、無視し続けている人類。
こんな欠陥生物は、神話に描かれているような“神の裁き”を待つまでもなく、とっとと滅びてしまえ。
内心、どこかで、そう思っていました。
言語化するのもおぞましいことだったので、自覚したのは割と最近のことです。
自分にも向けられた憎悪
一方で、言うまでもなく僕自身も人類の一員です。僕が抱いた人類への憎悪は、自分自身にも向いていました。「自分も、この欠陥生物の一人である」と、全く自分を信用できなかったのです。かと言って、僕一人の力で、この環境問題をどうにもすることはできません。目の前で浪費される資源やエネルギーにすら、どうすることもできないのです。
そんな無力感から、せめて、この人間のネガティビティにできるだけ加担しないようにと、常に自分を監視しながら日々を生きていく。それが僕の生きる目的になっていたように、今にして思えます。
そんな心境ですから、生きていくことを、とても辛く感じていました。滅ぶべき対象に自分自身を加えているのですから、当然と言えば当然です。
自分への不信から自分の行動を制限することで、成功体験が得られない。
例えば、「自分は褒めてもらえる」という信念を持っていると、誰かに褒められれば素直に喜びになります。そこが「自分には褒められる資格はない」となっていると、誰かに褒められても「そんな、大したことはありません」みたいな反応になるようなものです。本人の中では、褒められた体験として記憶されませんから。
無力感がさらなる無力感を生み出していく状況に、ただ、水を失った植物のように萎れていくような状況でした。
人の内側を変えるしかない
その裏で、冒頭に書いた「人類は地球の守り手」というビジョンも、その炎は消えずに、密やかに動いていました。
「人類本来の役割を果たせるようになるためには、何があるのだろう?」
明確に言語化できてはいませんでしたが、十代の後半くらいから、この問いはずっとあったように思います。そう思えば、もう30年近くになるわけです。
「やっぱり、人の内側を変えるしかないんだ」
問いを持ち続けてみて、そんな結論に、どうしても辿り着いてしまいます。
外側の制度や仕組みに手を加えたところで、本質的な解決にはならないことは山ほど見てきたからです。
例えば、安全と謳われた工業廃水が水俣病をもたらし、その後、今度は安全と謳われた原発で事故が起きました。種類は違えど、事の構造や本質は変わっていません。
海外で、ナイフやフォークは危ないからと、学校給食の現場から取り除いたという話を聞いたことがあります。これが何ら本質的な解決にはならないことは明白ですよね。外側に手を加えたことが無意味な事の典型です。
「すべてのものは2度創られる」なんて言葉があります。
包丁が美味しい料理を作る道具ともなれば、人を害する道具にもなり得る。その方向性を決めるのは、使う人間の内側(意識)にかかっています。美味しい料理を作るというものが内側でなければ、料理のツールとなりますが、人を害したいというものが内側にある人がそれを握れば凶器となります。
1度目の創造に影響を与える内側の在り方に、どうしたら違いをもたらすことができるか。
人の心や潜在意識を探究し続けてきて、そのアプローチを常に探してきました。今も探求は続いています。
まとめ
今、僕は人の内面にアプローチして、自分の真実と一致して生きることから、その人の人生を次のステージへと進化させる。個人セッションや各種のイベントを通じて、そのきっかけ作りをさせてもらっています。
その原点は、子供の頃に感じた環境問題への危機感だったということについてでした。
環境問題や放射能汚染に対して、我ながら奇妙なほど反応する自分に気づいていましたが、まさか今の活動へと繋がっているとは、最初は自分でも気づいていませんでした。
色んな方が関わってくださった中で、この繋がりに自分で気づくことができました。ここでは、それらの皆さんのお名前を挙げることはしませんが、この場を借りて感謝の気持ちを捧げます。
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