先日、とあるイベントでの出来事です。
そのエピソードから、いわゆる「成功した」人生を歩むことが、本当に「成功した人生」なのだろうか。そういうふうに考えさせられた出来事がありました。
なお、エピソード的な部分は、敢えてボカした内容にします。ご承知おきください。
それでは、まずは、そのエピソードからご紹介します。
これは間違ってる!
それは、こんな場面でした。
ちょっとした街歩きのような企画に参加した時のことです。参加されていた中に、80代にみえる老婦人がいました。地元のマダムという雰囲気。
街歩きの中には、目新しい価値観に基づいて作られた施設の解説が含まれていました。
その方が、その施設を見て、こんな感じで憤慨し始めたのです。
「◯◯というのは、こういうものではありませんか。このやり方は間違ってると思うわ」
議論するためのイベントではありませんから、それ以上、紛糾することはありませんでした。でも、ずっと気が晴れない様子も伺えました。破裂寸前、というと大袈裟かもしれませんけど、下手に触るとバーンとなりそうな軽いヒリヒリ感はありました。
正直なところ、僕の価値観では、その施設で取り入れた手法のほうが正しいというか、理に適っています。少し管理の手間はかかりますが、環境への負荷が小さいからです。近代において人類が取り組んできたことへの反省と学びが、そこに息づいています。
でも、そのご婦人は従来からの価値観こそが正しいと考え続けている。信念を持つことは良いことですが、今回は、そのことで不快な感情を味わってもいます。不快な思いを抱くような信念であれば、手放したほうが良いように思えます。
確かに、外観面から見ると、一面、その方の仰ることも間違いではない。でも、その施設の特徴は機能面を重視しているのですが、そのご婦人の論点は美観の問題。なので、そもそもの論点がズレているのですけどね。
いわゆるアンラーニングの難しさ
ここから、ちょっと想像(妄想?)を膨らませて未来に時間を進めます。
このご婦人にとっては、今後、新しい価値観に基づく施設が広がるほどに、生きづらさが増すことになります。彼女にとっては「間違った」ものが、周りに溢れていきますから。いちいち、「あれはおかしい」「これは間違っている」と血圧を上げることになります。
「良い人生」も良し悪しだな……って思いました
ここからは、僕の、ある意味で勝手な見立てですが。
その方は、なまじっか「良い人生」を歩めてしまった。もちろん、それなりの苦労もたくさん経験されているとは思います。でも、その上で、経済的にも健康面でも、平均以上の恵まれた環境を手に入れられているのも事実。
それだけに、その中で得たり学んだものを「正解」と考えています。ま、そうなるのも当然と言えば、そう。それは同時に、そこから逸脱するものを「間違ったもの」と見えてしまうリスクを孕んでいる。
ただの変化なのに、それが間違いに見えてしまう、とも言えます。過去の体験や学びに固執してしまう。特に「成功」体験を手放すのは容易ではありませんね。
でも、先ほど、機能面で見れば非常に有効であると述べたように、見方を変えれば「正しい」わけです。要するに、究極的な正しさを定義することはできない。
ある方が「変化の大きい現代に必要なのは、地図ではなく羅針盤」と仰ってました。
高度経済成長期にあったような、安定的に右肩上がりで成長する時代は終わり、変化の時代に入ったと言われています。ビジネスの領域では“VUCA”なんて言葉で表現されたり。
“地図”というのは「こうすれば、こういうプロセスで、どこどこに辿り着ける」という、一種の正解が。そして、そこに至るプロセスも標示されています。変化が大きい現代においては、度々「地図と違う」現実に出くわすことになります。価値観という街並みがどんどん変わっていくからです。アップデートが追いつかないのが前提になるわけです。
羅針盤は、進むべき方向を定めるのには使えます。でも、次に目の前で起きてくる現象を示唆してくれません。この先が山なのか、川なのか、はたまた海に出るのか。自分の目で足で、判断する以外にありません。
変化の時代には、地図のようにプロセスまで示してくれるツールでは、事あるごとに「地図と違う」現実にぶち当たります。なまじっか予測できていただけに、現実との違いがあると呆然としてしまう。でも、最初から羅針盤しかなければ、「こういうことになったのか」となる。
カーナビの通りに走っていたら、時々、畦道みたいなところに連れ込まれる?ことってありませんか。先ほどのご婦人は、そんな時の困惑に似た体験を、人生の中でされているのかもしれませんね。
何が幸いするかは、人間にはわからない
画家のゴッホ。彼のことは皆さんもご存じですよね。
彼の絵は、現在はとんでもない高値が付いていますが、生前は生涯で1枚しか絵が売れなかったと言われます。
歴史に「もしも」はありませんが、もし、生前から絵が普通に売れていたら。もしかしたら、あのような作品にはならなかったかもしれません。売れる作品作りになってしまうことで、良くも悪くも、画家としての進化は止まっていたかもしれない、と思えるのです。
果たして彼の人生は成功だったのか、成功ではなかったのか?
もはや、成功かどうか? という問い自体が無意味というか。例え、どんなふうに見えたとしても、その人生の価値に優劣は付けられないのではないでしょうか。これは、どんな人生にも価値があるという視点を持つ自由を私たちに与えてくれます。
最近、マイペースに歴史を学んでいますが、「成功」のイメージは時代と共に変化していることに驚かされます。
今は、変化が大きく、そのスピードも速い時代です。「成功」を目標に進んでしまうと、辿り着いた頃には「あれっ?!」ってことになりかねないのではないでしょうか。このあたりは、(少なくとも現在の)人類の持つ知力では対応しきれません。
そうであれば、理屈抜きで価値を感じることや、力の湧いてくる方向へ進み続けるほうが、結局は納得のいく結果が得られるのではないでしょうか。
まとめ
とあるイベントでのエピソードを通じて感じたものを綴りました。
「成功するって、本当に成功なのでしょうかね?」
そんなふうに考えちゃいます。何をして“成功”というべきか。
私たちは、ともすると「正しい/間違っている」とジャッジしがちです。できるだけジャッジは控え、一見すると宙ぶらりんのように感じる状況を保持できる「筋力」を養うというか。そちらのほうが大切なのかもしれません。
僕は、どんな“成功”が欲しいのでしょうね。お金はたくさん欲しいですけど笑
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