仕事柄、心の闇(いわゆる「シャドー」)と向き合うことの大切さを痛感しています。
以前は、ブログに綴る内容も、僕自身がシャドーと向き合うプロセスを綴ることに終始していた時期もありました。
それで、身を以て感じていることです。
大切だけど、その一方で、私たちは
向き合うって大変
って思い過ぎていやしないかと感じることも多々あります。自分自身も含めて。
その辺りを、まずは、最近、久しぶりに自己開示的なストーリーから始めてみたいと思います。
久々の大物が登場したけど
冒頭にも書きましたが、以前は、自己開示的な内容を多く綴っていました。
最近になって、綴ることが減っていたのは、綴るほどのことが単純に減ってきたことが背景としてありました。
そんな中、先日、久しぶりに、
これはデカイのが来た!
というのが出てきました。
それは、ずっと違和感として感じていたもの。
でも、そこに手を出そうとしても、いつも雲を摑むような感覚で、上手いこと正体が掴めなかったものでした。
それが、点と点が線になるかのように、一気に明確になりました。
言語化されたというか。
その内容を言葉にすると、結構エグい。
誤解も招きやすいので、ここには書かずにおきます笑
「まさか、自分の中に、こんなものがあるとは。これは、ガッツリと向き合わないとかな…」
その内容を自己分析して、そう予感しました。
ところが、待てど暮らせど、想定しているような大変さが無い。
でも、確かに、そこが明らかになったことによる、現実の変化が起きている。
肩透かしを食らったようでした。
心の自然治癒力に委ねる
話がちょっと脇道に逸れますが、お付き合いくださいね。
僕は生ゴミは極力、可燃ゴミとして出さずに、庭の片隅に穴を掘って、そこに埋めるようにしています。
堆肥とかまでは考えてなくて、ただ、自然の循環に乗せることを大切にしたくて。
シャベルで生ゴミを埋める穴を掘っていると、ガツンと大きな石に当たることがあります。
手に伝わってくる感触えから
これは大きそうだ。
シャベルだけで掘り返せるかな?
って不安を感じながら掘り進めてみる。
すると、大抵の場合、最初の予感よりも小さかったり、大きいけど薄かったりする石が掘り出されてくるのです。
「あれま、こんなものだったのか…」と。
冒頭に書いた「自分の心の闇と向き合う」こと。
そのプロセスを経た先に待っているものは、認識できる世界が広がるという内的成長です。
自分の器が広がるような体験です。
そこに至るプロセスは、先ほどの穴を掘り進めるということにも似ています。
掘り進めていたら何か大きな塊に突き当たる。
でも、それを勇気を持って更に進めてみたら、思っていたほど大したものではなかった、ということも多いということです。
私たちは、問題を「問題視」してしまうことが問題だったりします。
肉体と同様、心にも自然治癒力があります。
それに委ねる。
嵐の時はじっとしているのが最善であるのと同様に、心の闇が浮上してきた時、「何とかしなければ!」と「問題視」するから、このプロセスが実態よりも大ごとになってしまう。
そうではなく、極力大人しくして、時に味わって、ただ出てくるに任せる。
そうすると、「意外と大したことなく済んだな」という結果が待っているのです。
まとめ
心の闇が表面化してきたときでも、実は予想よりも軽いものが出てくることが多い。
それは解放に向かい始めたという証でもあり、つまりは、良くなる前兆。
だから、その動きに任せてみよう、という提案を書きました。
ご紹介した僕の最近のエピソードのように、表面化することで状況が改善します。
本当は、表面化していないときのほうが怖いのです。
一方で、心の自然治癒力が、自分を害するために働く筈が無いわけです。
どれだけ信頼して、そこに委ねられるかが、このプロセスが、ただただ辛いものになるか、実は大したことがなかったと気づいていく、という分かれ道になる。
もしかしたら、「どれだけ委ねられるか」のほうが、実は問われているのかも。
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