誰にでも訪れる人生の岐路。
そこに立ったとき、僕は、直感/直観と言われるようなものであったり、「人生の流れ」と呼んでいるものから選択するようにしています。
一見、非合理な方法で、一般的には推奨されていないため、ある種、実験的な感覚で取り組んでいます。
(単に合理的に考えることが下手なだけ、という噂もあるけど。)
そんな実験ですが、今のところ上手くいっています。
非合理な選択の結果、どのような変化が待ち受けていたのか。その中の具体例のストーリーを今回はご紹介します。
それでは、いってみましょう。
合理的な理由が見つからない移住
僕は2018年7月から2020年3月までの約20ヶ月、東京の奥多摩に住んでいました。
きっかけは、一つの直感から始まりました。
その辺りの詳しい経緯は、こちら↓↓の記事のほうに書いています。まだ最後まで書き終わってないのですが、奥多摩へ移住するまでの経緯は見て取れます。
ご存知の方も多いかも知れませんが、奥多摩は「東京の秘境」みたいに言われるほど、豊かな自然が溢れている地域。
僕が住んでいた場所は、駅は近くにあったけど、電車は1時間に2〜3本。
最寄りのスーパーまでは、電車を30分以上乗り継いで行かねばならないようなロケーションでした。
引越した頃の僕は、フリーランスになって1年ちょっと。ビジネスとしては、まだまだの状況でした。
「奥多摩は好きだけど仕事が無いから」と都心へ移っていく人が後を絶たない奥多摩に、敢えて拠点を移す。
そこに合理的な理由は、どうやっても見つかりませんでした。
社会的引きこもりになった結果
今だから言えるのですが、奥多摩に住んでいた期間は、僕にとっては、「社会的引きこもり」になったのでした。
表向きは個人事業主として社会との繋がりを保っていますが、実質的には、引きこもりと大差ない日々。
引きこもる中で起きていたのは、大きく次の2点です。
- 自分を癒すこと
- 自分を新たに構築し直すこと
(後ほど、それぞれを簡単に補足します。)
その結果、得られたのは次のような実感でした。
持続可能と理解して起きた変化
持続可能なものであると深く理解できたことで、どのような変化が起きたのでしょうか。
僕は、不安を強く感じやすいタイプです。
持続可能を悟ったことで、この不安から大幅に解放されました。
「もう、これで人生が終わってもいい」
大袈裟に見えるかも知れないけど、そう思えるくらいの達成感・満足感を感じる体験でした。
移住する前の僕には、全く考えの及ばないところに辿り着いてしまったのでした。
人生をエンターテイメントと思って
「人生、終わっても構わない」と思えたけど、それで人生が終わるわけは無いし笑、まだまだ生きようとしている自分も確かにいる。
これって不思議な感覚でした。僕にとって。
「それなら、人生をエンターテイメントとして楽しんでしまおう」
じゃあ、何がしたい?
不思議な感覚を味わいながらも、そうやって考えていったら、色んな夢や目標が湧いてくるようになったし、LINE公式アカウントを開設して、ブログなどではできないような発信をするようになりました。
「引きこもり」がもたらしたもの
奥多摩に「引きこもる」中で起きていたことについて、ここで簡単にではあるけど、詳しくご紹介します。
自分を癒すこと
心身共に疲弊していた自分を、自然の力を借りて癒すことでした。
特に30代後半での体験で尾を引いていたところです。
離婚を経験しましたし、資格を取るために勉強漬けだったことや、資格を取ってから入った職場での体験(肉体的にも精神的にも、僕にとっては、辛く厳しい職場でした。)などからくるものです。
そんな疲れや、心理学的に言えば“シャドー”と向き合っていました。
自分を新たに構築し直すこと
引きこもっていたとは言え、今思えば、とても大切な出会いも奥多摩時代に沢山ありました。
そこに刺激を受けながら、自分に合わない生き方をしてしまった30代の反省を活かして、ここからどうしていくべきか。
自分にはどんな価値観があるのか、どんな生き方が合っているのかについてです。
LINE公式アカウントで主に扱っている「自分のど真ん中を生きる」という、今の僕のキーワードについても深めたりしていました。
関連記事
▼今回と同じような内容の記事です。
▼僕のLINE公式アカウントの登録はこちらからどうぞ。
▼「ど真ん中を生きる」ということについて。
▼直感と直観の違いについて考察した記事。
まとめ
人生の岐路に差し掛かったとき、直感や人生の流れに従うという、ある種の非合理な選択をすることで、自分には見えていなかったピースを手に入れることに繋がる体験を書きました。
社会的引きこもり期を経て、少しずつだけど、ようやく個人事業主らしい動き方ができるようになってきました。
奥多摩にいる当時は、自分のビジネスが前に進む手応えが無いことに、苛立ちや疑問を感じたりもしましたが、本当の(隠された)目的はそれでは無かったのだから、当然のことですよね。
想いはどうあれ、本当の願いというのは、常に実現しているだと感じます。
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